留学生の声

応試教育 四年留学があるからの「やりたいこと」

青森大学 社会学部社会学科4年

石 越(中華人民共和国)

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 応試教育というのは自分の母国中国の一つ学校教育方法であり、学問上特殊な現象があるだけれども、日本の詰め込み教育に似ていた教育現象だと考えで頂いていいと思う。そして、今自分は、この応試教育を研究問題をし、論文を書いている最中で、四年留学生活の中で見つかった「やりたいこと」でもある。

 ここで、応試教育を少々紹介したいと思う。
 応試というのは社会生活や教育過程の中で様々な試験を対応することである。学校教育制度も古くから既に応試の部分がある。

 中国では、晋代以降の官僚は基本的に試験を通じて選抜されていた。よって、古代中国人は出世するため、かなり重度な受験勉強をする。現在残された漢詩と宋詞の中で、大量な受験勉強の苦しさを記載する詩と詞が残されている。自分がすぐいえるのは「十年寒窓無人問、一挙成名天下知。」である。その意味は「十年の努力の苦しさは誰にも問われ事がないし、いったん合格すると有名人になるみたいに名前が天下すべての人々に知られる。」である。一見結構応試てきなものであるが、試験の参加は自己任せ、難しい受験勉強も自己責任であって、近代の中等学校教育みたいに全国民を対象し、学校行くのはほぼ強制的に行われるものと違いがある。

 そして、近代的な中等学校教育にで、機械暗記による知識量の増大に比重を置く、多量の勉強による基礎学力の早期習得を目指し、まるでそれら学生に覚えさせた知識は試験のためだけの存在であったときになって、そこで応試教育が生まれる。

 なら、応試教育が実施される原因である試験はなんだろう。
 試験は現段階で人材を選抜する一つの手段に過ぎない。そして、試験は何よりも、同じ時間、同じ場所、同じ問題で行われるのを重視のものであるから、試験は「公平」だと見えてくる。

 しかし、自分は試験をいいものだと思わない(ここでの試験はまず進学試験など中等学校教育の中で行われる試験を限定する)。何故というなら、試験は「文化」を含まれている。試験に落ちた生徒はただその「文化」と合っていないだけで、その生徒の学力や才能など関係が薄い。さらに言うと、試験の「公平さ」である「同じ時間、同じ場所、同じ問題を重視」という特徴は逆に、人間が元々所有している多様な潜在才能を限定された基準の中で選別した、よって、選別に勝った「人材」というものも限定であり、多様さが足りない。

 結局、応試教育と試験の相互作用で、結果がさらに悪くなっていると思う。

 この応試教育というタイトルを見つかって、研究したいのはこの私の四年留学生活の一番の収穫である。もちろん、ただの無名な卒業論文ごときで、この問題を完全に解釈できるのは思わないだが、とりあえず今の私はやる気満々である。

 

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